2017年05月21日

真田信之

真田信之.jpg真田信之は真田昌幸の長男で、真田信繁の兄。
華々しく散った信繁に比べて影の薄いお兄ちゃんですが、江戸時代の上田藩、松代藩の初代藩主です。
戦国時代でもトップレベルの長命さで享年93才。
戦国時代で大名になった人物で一番長命だろう人物は大島光義で97才(美濃国関藩)。
93才で関ヶ原にも出陣したらしいという基地外武将。
性格な年齢はわかんないながら、大名じゃないけど、石田三成の嫡男石田重家が関ヶ原後仏門に入って生き延びて享年104才らしい。

さて、それはともかく真田信之は大河ドラマ「真田丸」で大泉洋が演じたことで多少なりとも名が売れたと思いたいところだが、まだまだ関連書籍は少ない。
そんな中、真田丸の監修もやっていた黒田基樹氏が解説本を出版していたので読んでみた。
黒田氏はたぶん専門は関東で北条や関東官僚上杉(謙信ではない)などなどをよく読むが、最近はいろいろ書いているみたい。
この本のあとがきにもありましたが、真田丸の監修をやるとのことでいろいろ調べた結果、まとめたのを真田関連本として3冊出したようだ。
最近は井伊直虎本も出している。

で、今までの通説とはどうやら違うみたいという話や知らなかった話を紹介しようと思う。
小説や漫画(「殿といっしょ」など)にもよく登場する話が全否定されているのだ。


①信幸から信之への変名
もともと真田信幸といったが、通説では関ヶ原の後に西軍についた父(真田昌幸)との決別の意味を込めて、「信之」と改名したというのは結構有名。
だが、文書とか見てみると、再び「信幸」という名が使われていた形跡があるので違うんじゃねという話。
ちなみに真田家の通字(代々受け継がれる字)が「幸」のように思えるが、「信」。
真田昌幸自体が実は3男なので通字である信がつかない。
真田昌幸の父、真田幸綱(幸隆の方が有名だが綱が正解とのこと)の嫡男は信綱で、次男が昌輝(信輝ともいう)なのだが二人共長篠の合戦で戦死したので繰り上げで真田家を継いだのだ。

②関ヶ原の前に沼田城に寄った話
関ヶ原の直前に、犬伏(地名)で西軍蜂起の知らせを受けて、昌幸と信繁が西軍に、信幸が東軍に付くということで決別した後、昌幸たちは信幸の居城である沼田城に立ち寄り、あわよくば乗っ取ろうとしたところ、留守居役の信幸の正室小松姫(本多忠勝の娘)が現れて、入城させてくれない。
「孫の顔を見せてくれ」とお願いしても昌幸の思惑を読みきった小松姫は断固拒否するので、昌幸は「さすが本多忠勝の娘」と諦めて通り過ぎていったお話です。
ですが、実はこのとき小松姫は大阪の方の人質に居て、大谷吉継邸で保護されていたらしいので、この話は嘘とのこと。
ちなみに大谷吉継(私の好きな武将ですが)は信繁の舅。

③信之の妻
正室として本多忠勝の娘である小松姫(稲姫)が有名過ぎて、他に居たこと自体知りませんでしたが、正室を娶る前に真田信綱(昌幸の長兄)の娘である清音院殿と結婚している。
つまりいとこ同士で結婚でいとこ婚(そんな言葉があったのか)。
長篠の合戦後に武田勝頼の命令で結婚した。

④信幸と信繁の性格
イメージ的には冷静沈着な信幸と勇猛果敢な信繁ですが、実際は信幸は総大将にも関わらず常に先陣を切るほど勇猛果敢であり、逆に信繁は物静かで無口で、穏やかな人物だったらしい。


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2017年03月28日

之(ゆき)がつく戦国時代の人物

ふと自分の名前についている「之(ゆき)」と着く戦国時代の人物がいるのかどうか気になった。
すぐ思いつく人物は一人しかいない。
真田丸にも準主役級で登場したあの人だ。

昔の日本では通字(とおりじ)といって、家に代々継承される特定の文字を入れる習慣があった。
例えば足利将軍家(何気に全員言える。徳川将軍家は言えないが)だと、「義」が通字
足利尊氏
足利義詮
足利義満
足利義持
足利義量
足利義教
足利義勝
足利義政
足利義尚
足利義材(義稙)
足利義澄
足利義晴
足利義輝
足利義栄
足利義昭

尊氏以外は「義」がつく。
逆に尊氏(ちなみに尊氏はもともと高氏で、後醍醐天皇の諱の尊をもらって改名した)の前の通字は「氏」だった。
ちなみにちなみに高氏の弟の名前は直義(ただよし)と「義」がつく。何か関係するのか。。。。

さて、日本ではなく中国等の漢字圏では輩行字(はいこうじ)といって、同世代で特定の文字を入れる習慣があった。
例えば曹操の子だと子恒(曹丕)、子建(曹植)、子脩(曹昂)など「子」が着く。
倉舒(曹沖)とか「子」がつかない子もいるので全員ではないようだ(年齢が離れ過ぎてるのもあるかもしれない)。

で、私の家はどちらかというと輩行字の方で兄弟ともども「之」がつく。
最近はキラキラネーム(DQNネームといいたいところだが)が多すぎるので、こういう慣習はますます廃れていくんだろうなあ。。。。
と思いつつ、もともと「之」がつく戦国時代の人物を調べてみた。
便利なことにWikipediaに戦国時代の人物一覧なるものがあるので、そこから抽出できる。
あくまでも「ゆき」と読むものだけで、「の」(中島可之助みたいな)のは省く。

①浅井政之(浅井長政の弟。お兄ちゃんが有名過ぎて他知らないパターン)
②家城之清(北畠家臣。童歌に歌われるほどの槍の名手だったらしい。初耳)
③香川之景(名前の通り香川県こと讃岐国の西讃岐の守護代。信長政権家にも入るのでたまに聞く)
④佐脇良之(前田利家の弟らしい。大河ドラマでは竹野内豊が演じる)
⑤島津忠之(播磨の赤松家臣。初耳)
⑥十河存之(長宗我部信親と一緒に玉砕したことで有名だけどそれしか知らないので忘れてた)
⑦武田信之(武田信玄の息子で勝頼の兄。11才で夭折したらしい。初耳)
⑧筒井慶之(洞ヶ峠で有名な筒井順慶の養子。大坂の陣で自害。初耳)
⑨平佐就之(毛利元就の側近。何気に三子教訓状の返書の宛先がこの就之らしい。初耳)
⑩別所友之(播磨の国の別所家臣。別所長治と一緒に切腹したお人。聞いたことがあるはず)
⑪細川勝之(細川勝元の猶子。初耳)
⑫細川真之(母親が美人の小少将といい長宗我部元親などの側室になりまくったお方。初耳)
⑬細川成之(阿波、三河、讃岐守護。東山文化を代表する文化人。初耳)
⑭細川政之(成之の長男。応仁の乱にも参陣。初耳)
⑮細川之持(政之の弟。足利義維という堺公方を養育した人。初耳)
⑯細川澄之(細川政元の養子。もとは関白九条家らしい。初耳)
⑰松井康之(松井正之の次男。細川藤孝と一緒に行動して江戸時代まで生き延びる。初耳)
⑱三段崎為之(朝倉家家臣。山内一豊に殺されたことで有名らしい。功名が辻にも登場。聞いたことはあるはず)
⑲三好之長(三好長慶の曽祖父。三好家の天下取りの足がかりをつくった名将)
⑳森好之(筒井家家臣で、島左近、松倉右近と並んで筒井の三家老と呼ばれた人物)
㉑山岡景之(六角家家臣。初耳)
㉒山高親之(武田家家臣で、川中島で死んだ武田信繁の首級を奪還した偉い人。聞いたことがあるはず)
㉓南浦文之(臨済宗の僧。示現流の名付け親。初耳)

以上、23名。
一番有名な真田信之がいないのは信幸になってるせいかなあと思っていたら、そもそもリストに入ってなかった(信繁はいるのに)。
このリストは結構中途半端なようだ。

言われてみればというのが4,5人いましたが、ほとんど知らない人物ばかりで、主役級になれるのは真田信之と三好之長くらい(実際に主人公の小説がある)なので、あまり使われてなかったのか、使ってても有名になれなかったのかですね。

ちなみに同じように検索してみて、行は20人、幸は24人、雪は4人(といってもほぼ道号なので微妙)くらいでした。
たぶん幸が一番多いかなあと思います。
posted by 士季 at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史モノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月27日

宦官

宦官とは去勢された官吏のことです。

中国もの(特に三国志序盤)ではよく登場しますが、それは皇帝の側仕えとして使えており、愚帝であればあるほど親しい宦官を重用し、政治が乱れ、反乱へと繋がるからです。

なんで皇帝の側仕えとして働くかというと後宮で男がいると女官たちと不義を働く可能性があり、かといって女だけだと力仕事的な面で不便であるため、去勢されている宦官が使われたという事情があります。

※たまに性欲が失われず、女官と不義を働くのも居たらしい。

ということで宦官は皇帝に近しく信任されて重用される可能性があるため、自ら(というか親により)去勢することもよくあった(後で書く曹騰も末子ということもあり、親により宦官にされて、父親の曹節の読み通り皇帝である順帝に信任された)。

それ以外には刑罰としての宮刑(腐刑とも)により去勢されり、異民族の捕虜や献上奴隷として去勢されたりもする(前者の例としては司馬遷)。

だいたい宦官は金銭欲や権力欲が激しい愚物が多く、趙高(秦を滅亡に導いた。馬鹿のエピソードで有名?)、十常侍(後漢を滅亡に導いた。正史では12人いたとか)、黄皓(蜀を滅亡に導いた)という連中は王朝の滅亡を導くようなのもいる。

それに対して宦官の偉人としては、

・司馬遷(史記の著者)

・蔡倫(紙の発明者。正確には発明者ではないが、質が良く簡易に作成できる紙に改良した)

・曹騰(曹操の父曹嵩の養父で、多くの賢人を見出している)

・鄭和(明の時代に南海大航海を7回行っており、アフリカまで行ってる)

など何人かはいる。

さて、ここまではもとから知っていたのだが、最近後漢書を読んでいて、列伝47に欒巴(らんは)という人物がいて、そこにこういう記述があった。

「順帝の世に宦者(=宦官)を以て掖亭(後宮)に給仕し、黄門令に補せらるるも、その好みに非ざるなり。(中略)。後に陽気通暢(男性機能が回復する)し、上(天子)に白(もう)して退かんことを乞う。(後略)」

ちなみに欒巴はその後、官吏として太守をやったり、相(皇族が封される国の宰相)として善政をしいたり、学校をおこして推奨したりして活躍しており、最終的には天子に上書して極諫した結果、ぶち切られて詰問され、自殺している。

子供として欒賀という人物がいるので、確かに男性機能は回復しているみたい。

去勢されているはずなのに、男性機能が回復したとはどうやって回復したのか不思議でしょうがなかった。

が、今読んでいる小説(鄭和もの)の中で去勢される際に、陰竿だけ斬り、陰嚢は残したとあり、陰嚢が残っていれば隆々として蘇生することもあると書かれてました(あくまでも小説なので鄭和がそうだったわけではないが、そういう事例があったのかもしれない)。

ググった感じだと医学的には8才以下で去勢されて、かつが壮健で栄養が十分であれば、生殖器が回復することも有り得るのだそうだ。

ただ宦官の場合は定期的にチェックされているらしく、もし回復していたらまた去勢されたとかなんとかともある。

ちなみに宦官は日本にはなかったようです(あったかもしれませんが)。

黒岩重吾「鬼道の女王卑弥呼」では、三国志の倭人の項目(いわゆる魏志倭人伝)において卑弥呼のところで「道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。」とあり、その一人の男子を幼いころからの愛人で、その男子が王として孤独に君臨する卑弥呼に対して心身ともに支えるために去勢して卑弥呼に仕えるといううまい設定をしている。

こういう感じで制度としてはともかく、宦官自体は居たかもしれないですね。

宦官の本も何冊か出ているので、そのうち勉強してみようかなと思ってます。

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2016年01月23日

高山右近「福者」認定

今日のニュースで戦国時代の大名である高山右近がキリスト教での最高の崇敬対象となる「聖人」に次ぐ「福者」に認定したというのがあった。

高山右近は織田信長や豊臣秀吉に仕えていて、高槻城の城主やら天正13年(1585年)には明石で6万石の大名となる。

が、秀吉が九州征伐後に九州でのキリシタンの実情を見てバテレン追放令が施行された。

その中で一番のキリシタン大名として有名だった高山右近がターゲットにされて、「棄教するか地位を捨てるか選べ」と脅され、皆に棄教しろと助言されるも6万石の地位を捨てることを決意。

その後は小西行長により小豆島とかに匿われたが、最終的には前田利家一族に庇護されて、なんだかんだで1万5千石を受けて暮らしたそうだ。

が、1614年に徳川家康によりまたもやキリシタン国外追放令が施行された結果、マニラに行って翌年亡くなったとのこと。

没後400年で筋目の年ということで日本のカトリック教会が右近を殉教者として福者に認定するようバチカンに働き掛けて、それが認められたみたいです。

6万石の大名の地位より自身の信仰を選んだため賞賛されることもあるようですが、自分のわがままを選んだ結果、家臣とその一族を路頭に迷わせるという将というか上に立つ人間としての責任を放棄しているのは最低だと思う。

そして自分は知り合いの大名に匿われたり、高禄で招かれたりと自分だけはなんだかんだで助かっているんだからとんでもないやつだと個人的には思います。

まあ、塩野七生「ローマ人の物語」を読んで以来、私は大のキリスト教嫌いなのでキツメの評価ではありますが。

ちなみにキリシタン大名は結構いて、有名ドコロでは黒田官兵衛(シメオン)もそうです。

有名ドコロを上げていくと、

明石掃部、有馬晴信、一条兼定、大友宗麟、大村純忠、蒲生氏郷、京極高次、黒田長政、小西行長、内藤如安、松浦隆信

などなど。思っていたよりかは少ない。

変わったところで、父親の筒井順慶は洞ヶ峠で有名で僧だけど息子の筒井定次はキリシタンだったりしますし、清須会議で織田の後継者に認定された三法師こと織田秀信もキリシタンのようです。

posted by 士季 at 13:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史モノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月31日

春秋

ちょっと小難しい話です。

春秋というのは中国の春秋時代の歴史書で、魯という国の年次で記録されたものです(なので編年体の歴史書)。

孔子が編集したものと言われ、儒教の経書(五経)の1つです。

いつも思うのが儒教で儒学という学問なので、宗教じゃないだろうと違和感を覚える。

孔子を必要以上に崇めているという点では宗教ぽいといえば宗教ぽい。

経書というのがまあ聖典で、それの説明というか解釈したものを緯書と言います。

経度、緯度ということからもわかるかもしれませんが、経は「たていと」、緯は「よこいと」のことです。

この春秋というのがもとで、この時代を春秋時代と言います。

ちなみに戦国時代はこの時代の策謀というか縦横家の活躍っぷりが書かれた「戦国策」から来てます。

さて、上記で書いたように春秋が孔子が編纂したというのが一般的に知られていることですが、平勢隆郎「中国古代の予言書」を読んだ結果、どうやら違うようです。

というのもこの春秋時代ではまだ使用されていなかった改元法が使われているとのことです。

最初の史書として「史記」がありますが、これの年月日の整合性が取れないところが数多くあります(議題に上がりそうなのが2900箇所あるとか)。

なぜそんなことが起きるのか?

どうやら2種類の改元法があり、春秋戦国時代の国々によってそれぞれ使い方が異なるとのことで、いろいろごっちゃになったようです。

当たり前ですが西暦とかそんな考え方がないので、各国の史書にはその国のトップが君主についてからの何年という表記になります。

例えば魯の陰公の3年とかといった記載になります(公は爵位で、陰は諡)。

で、2種類というのは即位した年の扱い方で、前の君主が死んだ翌年を元年とする踰年改元法(踰年はゆねんと読み、踰は越すことを言う)、即位した年時代を元年とする立年改元法があります。

史記の矛盾をなくしたり、いろいろ検討していくとどうやら踰年改元法が使われ始めたのが紀元前338年、すなわち春秋時代が紀元前403年までなので、戦国時代に成立した改元法が春秋にも使われているということから、どうやら春秋は戦国時代以降に作られたということになるようです。

そして分析を進めるとどこの国で作られたのか推測できるみたいです。

ちなみに春秋の緯書として3伝あり、春秋公羊伝と春秋穀梁伝と春秋左氏伝があります。

公羊伝と穀梁伝は春秋の字句の解説や解釈で、左氏伝は史実の詳細の補足をしたものになります。

春秋と左氏伝の関係は陳寿の三国志とそれを補足した裴松之の注の関係に似てます。

春秋は簡素すぎますが、左伝による膨大な補足により歴史書としては面白い(オタクにとってはで、一般的には難しいと思います)ので、左氏伝マニアは結構居て、三国時代にも関羽とか晋の統一に貢献した杜預(杜甫の先祖)なんかが居ます。

ちなみに杜預の左氏伝注が今の左氏伝のメインになっていたりします。

で、この3伝も同じようにどこの国で作られたのか推論されてるそうです。

というのもどうやら春秋と3伝は作り的にそれぞれの国の正統性を謳っているものとみなせるからです。

それの推定の仕方は3つの暦(夏暦、殷暦、周暦)があり、それぞれで何月を正月にするかで異なります。

それぞれの国がどの暦を使っているかは日食の年月でわかります。

今の技術ではその年の何月に日食があったかどうかが計算できるからです。

後は君子として誰を扱っているか等から推論しているようです。

結論としては、

春秋→斉

公羊伝→斉

穀梁伝→中山

左氏伝→韓

のようです。

細かいところからここまでわかるとは歴史研究は面白いもんだなあと思いました。

posted by 士季 at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史モノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月17日

中国史上最強のチートキャラ

今週頭の3連休のうちの日月は徹夜の仕事、そして本日土曜日もめでたく仕事だったので今週は仕事ばかりなので特に書くネタはない。

とは言え、一応最低週1でなんか書くというノルマを無駄に課しているので適当に書きます。

よくよく確認してみると2005年9月12日からblog書いて見るみたいなので、10年と1ヶ月ほど毎週blog書いているみたいです。

今回書くのは個人的に思う中国史上最強のチートキャラについて。

一応チートキャラとはなにかというと、ゲーム用語でその世界において突出した力をもつキャラクターを言い、まるで不正に改造(チート)したかのようなことからチートキャラと俗に言います。

一つの能力に関して突出しているか、全てにおいて超人的な完璧超人かを個人的には思ってます。

三国時代で言うと、武力で言えば呂布、知力で言えば諸葛亮(どちらも演義でですが)、万能で言えば曹操かと思います。

演義しか知らない人にとっては曹操は悪役で結構情けないところが多いですが、生涯の勝率で言えば8割は行ってます。

武の方でも、若いころに兵士が反乱起こしても自分で数十人殺したとか。

文の業績から行っても、儒教一辺倒だった世界に文学を流行らせ(時代名からとって建安文学という)、自身でも素晴らしい詩を作る詩人であり、孫子の兵法書で現存する最古の中である魏武注孫子を出費していたりする。

また碁も強いし、字もうまいし、酒も作るし(上奏文あり)、子沢山だし(息子25人)、まさに陳寿の言うところの「非常の人、超世の傑」です。

さて、本題ですが今回あげたい個人的に思う中国史上最強のチートキャラは誰かというと、漢を再興した光武帝こと劉秀です。

最近(というほど最近でもないが)、宮城谷昌光「草原の風」で劉秀ものを読んだり、それとは別に後漢書の翻訳本を読んだりして、大分劉秀に傾倒してます。

言うまでもないかもしれませんが、劉邦が興国した漢は王莽により乗っ取られ(戦とかせずにスムーズに乗取ったところは非常にスマートではある)、王莽は新という国の皇帝となりますが、失政により各地で反乱が起きて、それに乗じて劉秀、正確にはその族兄である劉玄(字:聖公)が王莽を倒して更始帝となるも、まだまだ群雄が乱立しており、最終的には劉秀により天下が統一されます。

劉秀の凄さの全てを書いたHPがあるので興味ある人はぜひ見てください。

光武帝・劉秀の面白さとは何か

このHPの管理人があげる正義のスーパーヒーローの28の条件を全て満たしているのが劉秀だと言います。

漫画の主人公でよくある条件で、冴えない男だけどピンチの時には強く格好いいし、ユーモアがあってヒロインに対しては単純一途とかいろいろそういう条件が書かれてます。

HPにも書かれているところもありますが、個人的にチートというか気に入っている点をちょっとピックアップしてみると以下になります。

・身長168cm(私と同じくらい)

・挙兵時は馬がなかったから牛にのって登場

・天下分け目の戦い昆陽の戦いで王莽軍100万(実数42万)を3000人で撃破。

・皇帝のくせに最前線で剣をとって戦う(大体は序盤はともかくある程度いったらそういうのは将軍にまかせるものだが、自分で剣をとって戦ってるのは永楽帝くらいか)。

・地方征伐を麾下の将軍に任せていて、その将軍が苦戦していると自ら兵を率いて救援し、撃破している(序列2位の最強の名将呉漢が苦戦する敵でさえ一蹴だから凄い)。

・若いころに「官につくなら執金吾、妻をめとらば陰麗華」と言っており、その陰麗華とちゃんと結婚している(10才年下)。

・少年の頃に予言書に劉秀が天子となると記載があって、誰もがそのときの官僚であった劉秀(本名は劉歆)を噂していたら、「それ、俺のことじゃん」とジョークを飛ばしてたり、どこぞの群雄との戦争中に敵から「匈奴が仲間についたぞ」と言うと、負けずに「匈奴が仲間についたぞ」と言い返したりと面白いキャラ。

・皇帝になっても誰も粛清しなかった。高祖劉邦の場合は力の功臣達がいると子孫たちが危ういと考えて粛清しまくった。

という風にかなりの主人公キャラで非常に面白いのにもかかわらず、劉秀に関して書かれた作品はあまりない。

宮城谷「草原の風」と塚本靑史「光武帝」くらいです。

前者は中盤の昆陽の戦いあたりは最高に面白いですが、いつもの先生らしく尻チョンボのところがあり、後者は超絶につまらない作品になってます。

群雄割拠の乱世なのになぜあまり書かれないのかと考えると、基本劉秀軍以外はあまり目立つキャラがいないためだと思います。

やはりライバルがいないと燃えないので受けないのかと思います。

せめて専門書でもと読みたいところですが、実際これもほとんどなし。

かなりお高い後漢書くらいで、個人的には東觀漢記という後漢書よりもっと細かく書かれた書物があるらしいでのすが、残念ながら邦訳されたものがない。

あとは資治通鑑くらいですが編年体だしそんなに詳しく書かれてないんだろうな(そのうち邦訳版が出るので楽しみではあるが)。

もし宝くじが当たれば仕事やめて、中国語(というか漢文)勉強して中国の史書を読みまくって研究とかできるのに・・・とたまに思う。

この辺は老後の楽しみにしとくかなあ(そんな気力が残ってるといいですが)。

posted by 士季 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史モノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月22日

内房一人旅その3(日本寺)

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日本寺へは保田駅からバスで行けるはずが、バスが2時間に1本くらい・・・

観光地なのにどういうこったと思いつつ、なんか時刻表みると※で鋸山保田口折返とかいうバスがあって、それがあと10分でくるのでこれで行けるじゃんと思って、これに乗った。

道が渋滞していてなかなか進まなかったが、よしやっとたどり着いたと思っていたら、素通り・・・

本当に折り返すだけで止まらないとはと嘆いていたら、また保田駅の方まで行き、そこから逆方向に。

もう千葉県のバスはわかりにくくて嫌になった。

どの道行けばたどり着けるかわかったので、途中でバス降りて鋸山保田口まで徒歩で30分くらい歩いた。

普通に道路を歩いたため、歩行できる場所がなく結構危なかった(あとで知ったことだが別にハイキングコースがある)。

鋸山保田口から少し登ったところに表参道で登れる箇所がある。

ここから登っていったのだが、登る人はおらず降って来る人ばかり。

それもそのはずでおそらく普通は浜金谷駅近くのロープウェイで登って、ロープウェイで帰らない人はこの表参道から降りてくるといった感じのようです。

表参道も結構な階段の数ですが、ちゃんと舗装されており、普段の出勤で階段200段を登っている私としてはそれほど苦でもなかった。

そして入り口である表参道管理所に着いたのが16時くらい。

入館は17時までなので意外と時間がなかった。

ここの手続きで普段あまりやってないような感じでかなり手際が悪く時間がかかったが、ここから登って行くと、途中で達磨石があり、そこが分岐点となって、上に行くコースと右の大仏に行くコースに別れる。

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時間もないので大一目標である大仏を目指した。

大仏(薬師瑠璃光如来)前に到着してみると、ここはさすがに観光客が大勢いました。

日本一大きい大仏で高さは31.05mあり、奈良の大仏で18.18m、かまくらで13.35mとダントツの大きさを誇る。

見上げてみると本当にでかかった。

あと、隣接するようにちっこいお願い地蔵というものがあり、観光客はそこに売店で買ったちっこい地蔵に願い事や名前を書いてお供えしてました。

目的の大仏を見た後はそのまま大仏前参道の方を登って行きました。

ここまでだいぶ登ってきましたが、これもなんだんかんだで結構な階段の数で、あるカップルは女性を置き去りにして男が先に進んでたり、ある親子連れは子供を背負って登ってました。

父親は大変だなあと思った次第です。

それを横目でスルーして、横道それて不動滝(滝といってもちょろちょろ流れてる程度)を見て、そして聖徳太子像を見に行きました。

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見に行ったと言っても、2015年5月7日に聖徳太子像がバカップルに破壊されたので、当然なく、意味深な空間があるだけでした(7月15日に18才少女が逮捕されたようですが)。

その事情を知らない人はその隣にある小さい像を見て、それを聖徳太子像だと思ってました。

それを横目にして千五百羅漢道にでも行こうと思いましたが、あまり時間もないので諦めて上に登って百尺観音を見に行くことにしました。

所謂「地獄のぞき」の反対側の下の部分がくり抜かれて作られてます。

これもまたでかかった。

100尺なので30mくらいあるのでしょう。

この時点で16時40分くらいでしたが、ロープウェイが17時までということもあるが、まだちょっとあるので頂上まで行くことにした。

この時点でも結構な高さだが、まだまだ階段を登る。

他のところに比べると、さらに急だったような気がします。

そして山頂に到着。

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鋸山は標高324m、全くそんなつもりはありませんでしたが登山をしてしまった。

いい天気だったし、いい景色でした。

反対側の地獄のぞきの方には行きませんでした(行列になってました)。

まあ高所恐怖所の気がある私が下手に下を覗いたら気分が悪くなりそうですし。

ということで登頂したので後は帰るだけとロープウェイ乗り場に言ってみると、大行列。

普段は17時までだが、大混雑のため最後尾の人まで運行するという。

そんなこと言ってるとどんどん最後尾に並ばれて終わらないような気がする。

ロープウェイの切符は並んでる最中に途中で買えるなんだろうなと思っていたら、列から離れたところに切符売り場がある。

誰も買いに行かないし、不思議に思っていたら、よくよく考えてみるとだいたいの人はロープウェイ往復切符を買っているので誰も買いに行かないのかと気づいた。

一旦列から抜けると途中で入れてくれるとも思えないので、諦めて道を下っていくことにした。

一声かけたらもしかしたら入れてくるかもしないが、駄々こねてる子供をつれた親に話しかける勇気が私にはなかった。

どこから降りたかというと百尺観音のあった箇所に金谷下山口という入り口があり、そこから鋸山裏登山道があるので、そこから降りた。

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表参道から登って、裏参道から降りるのはある意味ちょうどいいと思っていたが、これが甘かった。

表参道はちゃんと舗装されていたが、裏参道は完全な山道のまさに登山コース。

18時前でもうすでに日が沈みかけており、大分暗くなってきた。

ふと見てみると、画像のような立て看板があり、「まむしに注意」・・・こんなところにまみすが。

普段着+運動靴ではない普通の靴での登山はきつかった。

途中になぜか泥道があり、そこですべりかけて非常に焦った(幸い転ばなかった)。

途中ですれ違った人は懐中電灯をもった完全な登山客。

鬱蒼とした森の中なので18時前とは言え非常に暗い。

ロープに捕まらないと降りにくいところや、わかりにくい分岐点とかもあった。

一方は暗いけど下り道、もう一方は明るい上り道。

最初下り道を行こうとしたがやたらと暗く怪しくなったので引き返して上り道の方へ。

正解でした。

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危うく遭難するところだった。

30分位降ってなんとか明かりが見えた時には助かった気持ちでした。

麓まで降りた時には辺りは真っ暗。

ということで、鋸山を完全に登山してしまった次第です。

明日は間違いなく明日が筋肉痛です。

基本的にリサーチ不足だったんですが、ほんと、災難な一日でした。

もう千葉なんて行きたくねえって感じですが、そのうち比較的都会な千葉の北部の方で、千葉城や関宿城、あとホワイト餃子なるものを食べに行きたいと思います。

posted by 士季 at 23:32| Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史モノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

内房一人旅その2(崖観音失敗)

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次は崖観音のある大福寺を目指しました。

城山公園からバス1本で行けます。

バスは1時間に1本しかないため、次のバスまで30分以上あることから、途中(館山駅)まで歩こうと思いました。

団子食って無ければ1本前に乗れましたが。

これが第一の失敗。

というのも館山駅まで20分程度で着くのですが、バス停がわからなかった。

JRのバス停はいっぱいあるのですが市営のやつがどこにあるのかいまいちよくわからない。

駅にある地図にもちゃんとは書いてない。

おとなしく駅近辺で待っとけば見逃さなかったと思いますが、基本的にじっとしていられない私は適当に散策。

次のバス停を発見するも時刻がおかしくよくわからない。

というかバス停のところにじゃまになるように路駐しているのはいかがなものかと思う。

と思いつつ、館山駅に戻ってみると目的のバスを発見。

高速バスのところに紛れ込んで存在しているようでした。

で、目の前でバスが通り過ぎちゃいましたorz

次のバスは1時間以上あと、待ってられないのでタクシーでGO!

バスだと320円のところがタクシーで1700円くらい。

で、いざ行かんと見上げてみると、写真のように工事中。

まあ工事中でも入って見れたらいっかと思って、大福寺に突入してみたら立ち入り禁止orz

無駄に時間と金をかけたというのに工事中で、それも入れないとはとまさにorzの状態でした。

同じように騙されたかのような人が2組みいました。

HPにも特に書いてないなと思ってよく見てみると、2014.12.14修繕工事に伴うお知らせというのがあった。

よく読んでみると「平成27年1月中旬より約1年半にかけ観音堂修繕工事を実施致します。
ご参拝の皆様には恐れ入りますが、工事中観音堂への出入りが出来ないため、本堂前によるご参拝となります。何卒ご理解戴きたくお願い申し上げます。」とある。

2014年の記事など読むか、1年半もかかると思うか、というかもっとHPにでかでかと書けよと言いたいところです。

と、あまり落胆してもしょうがないので次の目的地である日本寺に向けて移動した。

次は電車なので最寄りの駅である那古船形駅の時間を確認してみると、約8分後に電車が来る。

徒歩15分の距離で、これを逃すと1時間以上なにもないところで待たされる。

ということで、猛烈にダッシュすることにした。

Googleマップで道はだいたいわかるのでなんとか間に合うだろうと頑張った。

1km以上走るのは超久々、軽装なのでまだなんとか走れた。

結果的には超ギリギリ間に合った。

駅はまさに田舎の駅という感じで無人ではないもの小さい駅なので、ICカードに対応してなかったらやばいなと思っていたら、ICカードに対応していたのでなんとかなった。

今回まともに成功した唯一のことでした。

日本寺の最寄り?の駅である保田(ほた)駅まで20分程度。

また苦難が始まる。

posted by 士季 at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史モノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

内房一人旅その1(館山城)

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長期連休なので当初は東北にでも行こうかと思っていたら、シルバーウィーク中どっかで休日出勤してもらうかもと言われたので東北はやめた(結局土曜日だけ出勤)。

そもそも先週は出張ばかりだったのでちょっと疲れてたのもあり、近場で日帰りで済ませることにした。

千葉県は城(といっても模擬天守)がそこそこの数があるので、千葉県に行ってみようと思った。

最初に行こうと考えた城しては、大多喜城、久留里城、館山城、関宿城、千葉城の5つ。

大多喜城と久留里城は内陸の方なので結構遠く、関宿城は北の方で埼玉県に隣接しているところということもあり、やはり遠い。

ということで今回は内房にある館山城と千葉城に行くことにした。

あとは+αでが館山市にある大福寺の崖観音と日本一でかい大仏がある日本寺に行ってみることにした。

ちょっと先走りますが、今回は不運続きで、おおまかに計画を決めて後は行き当たりばったりで済ませる私ですが、尽く失敗しました。

ということでまずは南の館山に行くために高速バスで新宿(正確には代々木)から高速バスで出発。

電車でぐるっと回るよりアクアライン乗った方が早いし、それだったら横浜から行った方が無駄が内容に思えるが、館山直通のバスは新宿発しかないので、若干遠回りしている。

この時期に高速バスを使った時点でちょっと失敗している。

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新宿を予定通り9時に出発し、予定では11時くらいに到着予定だったのが、渋滞のせいで1時間遅れ。

12時前だし、館山駅で飯でも食うかと思っていたら飯屋が・・・ない(バスターミナルと反対側には3店舗ほどあり)。

電車やバスの時間を確認してみると1時間に1本・・・千葉を過大評価していたようorz

ということで昼飯を食わずに館山城のある城山公園へバスで移動。

標高72mの城山の上にある山城です。

本物の館山城は1580年に里見義頼により築城されて、1614年に里見氏が改易されて、館山藩はお取り潰しになっているのでかなり寿命は短かった。

里見氏は安房、上総の国を席巻した戦国大名で関東の覇者北条氏に屈することなく抵抗し続けて、なんだかんだでしぶとく生き残った大名です。

中でも義頼の祖父である里見義堯は全盛期を築き、房総半島全域近くを支配するところまで行っている。

中国の伝説の五帝の一人である堯(ぎょう)という字が着けられていることもあり、息子には同じく舜(しゅん)に因んで義舜と着けている。

民政の方にも力を入れて、万民君様として民に敬われていたそうです。

小国が大国に抗い続けているのが大好きな判官贔屓な私としては好きな武将の一人です。

PHP文庫の「里見義堯」は面白い小説でした。

この館山城や館山駅前で「里見氏を大河ドラマに!」とPRしておりましたが、面白いとは言え規模が小さいので難しいでしょう。

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話は大分それてしまいましたが、館山城は3層4階建てで、中身は南総里見八犬伝の資料館です。

言うまでも滝沢馬琴の長編小説で、「仁義礼智忠信孝悌」の玉を持つ八犬士(全員名前に犬がついている)が里見氏の危機を救う物語です。

勧善懲悪のわかりやすいストーリーらしいです(28年かけた大作とか)。

山田風太郎とかも書いているようですし、いつか読んてみたいところではあります。

ガンガンでやってた「里見☆八犬伝」とかも置いてあって懐かしく感じました(全く覚えてませんが)。

館山城の外観はよくある模擬天守という感じでした。

天守からの眺めは小高い山の上にあるということもありよかった。

若干雲がありましたが、天気もよく青い館山湾が映えました。

対岸の三浦半島は薄っすら見えましたが、伊豆半島までは見えませんでした。

空気が澄んだ冬にでも運が良ければ富士山見えるかもという感じです。

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最後は山を降りたところにある団子屋で団子3本食べました。

左からピーナッツ、みたらし、上総のり焼き。

ピーナッツが結構よかったのですが、全体的に温かい団子の方が美味しいだろうなと思いました。

posted by 士季 at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史モノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月04日

焚書坑儒

始皇帝と言えば、中国を統一(天下一統)した偉大な人物ですが、基本的に悪名高い悪者のイメージが強いと思います。

中国人の大半は漢民族で、そのため漢の時代を尊び、その祖である漢の高祖(劉邦)を良きものにするため、高祖が滅ぼした(正確には項羽か)秦を悪者扱いしているイメージもあるのではないかと思う。

悪名高いものの例としては大きくは以下の2点が挙げられる。

・焚書坑儒

・始皇帝陵や阿房宮建設(農民を徴発したから)

しかし上の2点に関しては一般的に知られている事実は儒者によりかなり誇張されている。

まずは簡単に解説します。

■焚書坑儒

焚書・坑儒は「書を燃やして、儒者を坑する(生埋めにする)」という意味である。

焚書は始皇帝が中央集権制である郡県制をひこうとするも、博士である淳于越はそれに反対して古を尊び、地方は王が治める封建制にすべきだと言った。

孔子さまにしろ儒者どもは古き良き時代を尊び、現実をみず現政府を批判し、人民にもそう教えた結果、人民も法令を守らず、批判するようになる。

このような状態を放置したら、上は君主の勢威が落ち、下では党派が蔓る。

それを防ぐためにも、教えられないように余計な書物(医、薬、農以外)を焼いてしまえというのが焚書、挟書律です。

坑儒は廬生や侯生といった方士(呪術師的な怪しい人物。仙薬探しに行った徐福とかもそう)や儒者が始皇帝が独裁者で刑罰を乱発していると批判して逃亡したことにブチ切れた始皇帝が都である咸陽に残っていた方士と儒者460人を生埋めにして虐殺したことを言う。

これが誤り。

まず仙薬探しに失敗した方士が逃亡したことにより、御史大夫に社会擾乱のかどで諸生の捜査を命じた。

御史大夫は三公(官僚のトップ3)の一つで行政を監査する機関である。

その御史大夫は配下を総動員し、捜査開始。

そうすると諸生どもはお互いに庇い立てせず、むしろ相互告発する始末で、審問を受けたうちの460名が自白し、社会擾乱の罪で「坑」の刑に処せられた。

で、まず処刑されたのは諸生であって儒者だけではない(一部には居たぐらい)。

「坑」は字義が「穴埋め」ということではなく、もともとは「門+良(ろうと読み、むなしいという意味)」や「虚(うつろ)」である。

虚は落とし穴のことで、落とし穴は敵や動物を生け捕るためのものである。

ということで、「坑」という文字を動詞として使うと、「閉じ込める」という意味になる。

ちなみにこれが紀元前212年のことで、これの7年後に項羽が章邯を降した際に、一緒に降った20万人の秦軍に対して謀叛されては困るので、その秦軍を夜に急襲して「坑」した。

という記述があり、横山光輝「項羽と劉邦」では谷底に落っことしてますが、20万人の人間に対してそれを実行するには被害が出すぎる(武器持ってなくても必死で反抗されたらかなりのダメージを受けるだろう)ので、実際にはとりあえずどっかに閉じ込めたという風にとった方が自然だろう。

なので、460名の犯罪者をどこかに閉じ込めたという普通の意味になる。

これを後代の儒者たちは生埋めにしたと解釈して、批判している。

上記のことは安能務「始皇帝」の中に記載があり、なるほどだなあと思いました。

この著者は読んでいる限り、かなり儒者が嫌いのようです(私も嫌いですが)。

■始皇帝陵や阿房宮の建設

始皇帝陵は始皇帝の墓、阿房宮は宮殿です。

一般的に知られているのは農民を徴発して、無理やり使役したこと。

これも誤り。

始皇帝は各地を巡遊して、天下一統されたことを伝えるため各地に石碑を立てている。

その中に黎庶無繇」という言葉があり、これは人民(黎庶)を徭役なしということで、地勢が固まったから人民に徭役を課しませんよと言っている。

石碑に刻んだ言葉をわざわざ無視することはありえないので、実際には実行していないと思われる。

ただ阿房宮なり始皇帝陵なりを作るには何十万、何百万という人が使われている。

では誰が強制労働させられたかというと、かつて兵役や納税を怠って逃亡した罪人や義父の家に寄食する怠け者(ニートか)や正業(農耕)に就かず物を売り歩いて利を得る不用の人(商人)や獄吏などで不正を働いた人達のようだ。

ということで罪人を無駄飯食いにしないことも考慮して効率化を図ったようだ。

ところでなぜ儒者はこの事実を無視し、批判しているか。

秦という法治国家では、政府内で不正を働くのをチェックする監査官がいる。

こんなものがいると賄賂を受け取り、私腹を肥やすことができない。

せっかく苦労して官僚になったのに甘い汁を吸えないような意味が無い。

そうなっては困るから始皇帝のような法治国家を目指さないように始皇帝を悪しざまに言っている。

なので、今でも中国は賄賂、賄賂、賄賂の国なのだと思われる。

posted by 士季 at 15:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史モノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする