2017年05月21日

真田信之

真田信之.jpg真田信之は真田昌幸の長男で、真田信繁の兄。
華々しく散った信繁に比べて影の薄いお兄ちゃんですが、江戸時代の上田藩、松代藩の初代藩主です。
戦国時代でもトップレベルの長命さで享年93才。
戦国時代で大名になった人物で一番長命だろう人物は大島光義で97才(美濃国関藩)。
93才で関ヶ原にも出陣したらしいという基地外武将。
性格な年齢はわかんないながら、大名じゃないけど、石田三成の嫡男石田重家が関ヶ原後仏門に入って生き延びて享年104才らしい。

さて、それはともかく真田信之は大河ドラマ「真田丸」で大泉洋が演じたことで多少なりとも名が売れたと思いたいところだが、まだまだ関連書籍は少ない。
そんな中、真田丸の監修もやっていた黒田基樹氏が解説本を出版していたので読んでみた。
黒田氏はたぶん専門は関東で北条や関東官僚上杉(謙信ではない)などなどをよく読むが、最近はいろいろ書いているみたい。
この本のあとがきにもありましたが、真田丸の監修をやるとのことでいろいろ調べた結果、まとめたのを真田関連本として3冊出したようだ。
最近は井伊直虎本も出している。

で、今までの通説とはどうやら違うみたいという話や知らなかった話を紹介しようと思う。
小説や漫画(「殿といっしょ」など)にもよく登場する話が全否定されているのだ。


①信幸から信之への変名
もともと真田信幸といったが、通説では関ヶ原の後に西軍についた父(真田昌幸)との決別の意味を込めて、「信之」と改名したというのは結構有名。
だが、文書とか見てみると、再び「信幸」という名が使われていた形跡があるので違うんじゃねという話。
ちなみに真田家の通字(代々受け継がれる字)が「幸」のように思えるが、「信」。
真田昌幸自体が実は3男なので通字である信がつかない。
真田昌幸の父、真田幸綱(幸隆の方が有名だが綱が正解とのこと)の嫡男は信綱で、次男が昌輝(信輝ともいう)なのだが二人共長篠の合戦で戦死したので繰り上げで真田家を継いだのだ。

②関ヶ原の前に沼田城に寄った話
関ヶ原の直前に、犬伏(地名)で西軍蜂起の知らせを受けて、昌幸と信繁が西軍に、信幸が東軍に付くということで決別した後、昌幸たちは信幸の居城である沼田城に立ち寄り、あわよくば乗っ取ろうとしたところ、留守居役の信幸の正室小松姫(本多忠勝の娘)が現れて、入城させてくれない。
「孫の顔を見せてくれ」とお願いしても昌幸の思惑を読みきった小松姫は断固拒否するので、昌幸は「さすが本多忠勝の娘」と諦めて通り過ぎていったお話です。
ですが、実はこのとき小松姫は大阪の方の人質に居て、大谷吉継邸で保護されていたらしいので、この話は嘘とのこと。
ちなみに大谷吉継(私の好きな武将ですが)は信繁の舅。

③信之の妻
正室として本多忠勝の娘である小松姫(稲姫)が有名過ぎて、他に居たこと自体知りませんでしたが、正室を娶る前に真田信綱(昌幸の長兄)の娘である清音院殿と結婚している。
つまりいとこ同士で結婚でいとこ婚(そんな言葉があったのか)。
長篠の合戦後に武田勝頼の命令で結婚した。

④信幸と信繁の性格
イメージ的には冷静沈着な信幸と勇猛果敢な信繁ですが、実際は信幸は総大将にも関わらず常に先陣を切るほど勇猛果敢であり、逆に信繁は物静かで無口で、穏やかな人物だったらしい。


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2017年03月28日

之(ゆき)がつく戦国時代の人物

ふと自分の名前についている「之(ゆき)」と着く戦国時代の人物がいるのかどうか気になった。
すぐ思いつく人物は一人しかいない。
真田丸にも準主役級で登場したあの人だ。

昔の日本では通字(とおりじ)といって、家に代々継承される特定の文字を入れる習慣があった。
例えば足利将軍家(何気に全員言える。徳川将軍家は言えないが)だと、「義」が通字
足利尊氏
足利義詮
足利義満
足利義持
足利義量
足利義教
足利義勝
足利義政
足利義尚
足利義材(義稙)
足利義澄
足利義晴
足利義輝
足利義栄
足利義昭

尊氏以外は「義」がつく。
逆に尊氏(ちなみに尊氏はもともと高氏で、後醍醐天皇の諱の尊をもらって改名した)の前の通字は「氏」だった。
ちなみにちなみに高氏の弟の名前は直義(ただよし)と「義」がつく。何か関係するのか。。。。

さて、日本ではなく中国等の漢字圏では輩行字(はいこうじ)といって、同世代で特定の文字を入れる習慣があった。
例えば曹操の子だと子恒(曹丕)、子建(曹植)、子脩(曹昂)など「子」が着く。
倉舒(曹沖)とか「子」がつかない子もいるので全員ではないようだ(年齢が離れ過ぎてるのもあるかもしれない)。

で、私の家はどちらかというと輩行字の方で兄弟ともども「之」がつく。
最近はキラキラネーム(DQNネームといいたいところだが)が多すぎるので、こういう慣習はますます廃れていくんだろうなあ。。。。
と思いつつ、もともと「之」がつく戦国時代の人物を調べてみた。
便利なことにWikipediaに戦国時代の人物一覧なるものがあるので、そこから抽出できる。
あくまでも「ゆき」と読むものだけで、「の」(中島可之助みたいな)のは省く。

①浅井政之(浅井長政の弟。お兄ちゃんが有名過ぎて他知らないパターン)
②家城之清(北畠家臣。童歌に歌われるほどの槍の名手だったらしい。初耳)
③香川之景(名前の通り香川県こと讃岐国の西讃岐の守護代。信長政権家にも入るのでたまに聞く)
④佐脇良之(前田利家の弟らしい。大河ドラマでは竹野内豊が演じる)
⑤島津忠之(播磨の赤松家臣。初耳)
⑥十河存之(長宗我部信親と一緒に玉砕したことで有名だけどそれしか知らないので忘れてた)
⑦武田信之(武田信玄の息子で勝頼の兄。11才で夭折したらしい。初耳)
⑧筒井慶之(洞ヶ峠で有名な筒井順慶の養子。大坂の陣で自害。初耳)
⑨平佐就之(毛利元就の側近。何気に三子教訓状の返書の宛先がこの就之らしい。初耳)
⑩別所友之(播磨の国の別所家臣。別所長治と一緒に切腹したお人。聞いたことがあるはず)
⑪細川勝之(細川勝元の猶子。初耳)
⑫細川真之(母親が美人の小少将といい長宗我部元親などの側室になりまくったお方。初耳)
⑬細川成之(阿波、三河、讃岐守護。東山文化を代表する文化人。初耳)
⑭細川政之(成之の長男。応仁の乱にも参陣。初耳)
⑮細川之持(政之の弟。足利義維という堺公方を養育した人。初耳)
⑯細川澄之(細川政元の養子。もとは関白九条家らしい。初耳)
⑰松井康之(松井正之の次男。細川藤孝と一緒に行動して江戸時代まで生き延びる。初耳)
⑱三段崎為之(朝倉家家臣。山内一豊に殺されたことで有名らしい。功名が辻にも登場。聞いたことはあるはず)
⑲三好之長(三好長慶の曽祖父。三好家の天下取りの足がかりをつくった名将)
⑳森好之(筒井家家臣で、島左近、松倉右近と並んで筒井の三家老と呼ばれた人物)
㉑山岡景之(六角家家臣。初耳)
㉒山高親之(武田家家臣で、川中島で死んだ武田信繁の首級を奪還した偉い人。聞いたことがあるはず)
㉓南浦文之(臨済宗の僧。示現流の名付け親。初耳)

以上、23名。
一番有名な真田信之がいないのは信幸になってるせいかなあと思っていたら、そもそもリストに入ってなかった(信繁はいるのに)。
このリストは結構中途半端なようだ。

言われてみればというのが4,5人いましたが、ほとんど知らない人物ばかりで、主役級になれるのは真田信之と三好之長くらい(実際に主人公の小説がある)なので、あまり使われてなかったのか、使ってても有名になれなかったのかですね。

ちなみに同じように検索してみて、行は20人、幸は24人、雪は4人(といってもほぼ道号なので微妙)くらいでした。
たぶん幸が一番多いかなあと思います。
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2016年08月27日

宦官

宦官とは去勢された官吏のことです。

中国もの(特に三国志序盤)ではよく登場しますが、それは皇帝の側仕えとして使えており、愚帝であればあるほど親しい宦官を重用し、政治が乱れ、反乱へと繋がるからです。

なんで皇帝の側仕えとして働くかというと後宮で男がいると女官たちと不義を働く可能性があり、かといって女だけだと力仕事的な面で不便であるため、去勢されている宦官が使われたという事情があります。

※たまに性欲が失われず、女官と不義を働くのも居たらしい。

ということで宦官は皇帝に近しく信任されて重用される可能性があるため、自ら(というか親により)去勢することもよくあった(後で書く曹騰も末子ということもあり、親により宦官にされて、父親の曹節の読み通り皇帝である順帝に信任された)。

それ以外には刑罰としての宮刑(腐刑とも)により去勢されり、異民族の捕虜や献上奴隷として去勢されたりもする(前者の例としては司馬遷)。

だいたい宦官は金銭欲や権力欲が激しい愚物が多く、趙高(秦を滅亡に導いた。馬鹿のエピソードで有名?)、十常侍(後漢を滅亡に導いた。正史では12人いたとか)、黄皓(蜀を滅亡に導いた)という連中は王朝の滅亡を導くようなのもいる。

それに対して宦官の偉人としては、

・司馬遷(史記の著者)

・蔡倫(紙の発明者。正確には発明者ではないが、質が良く簡易に作成できる紙に改良した)

・曹騰(曹操の父曹嵩の養父で、多くの賢人を見出している)

・鄭和(明の時代に南海大航海を7回行っており、アフリカまで行ってる)

など何人かはいる。

さて、ここまではもとから知っていたのだが、最近後漢書を読んでいて、列伝47に欒巴(らんは)という人物がいて、そこにこういう記述があった。

「順帝の世に宦者(=宦官)を以て掖亭(後宮)に給仕し、黄門令に補せらるるも、その好みに非ざるなり。(中略)。後に陽気通暢(男性機能が回復する)し、上(天子)に白(もう)して退かんことを乞う。(後略)」

ちなみに欒巴はその後、官吏として太守をやったり、相(皇族が封される国の宰相)として善政をしいたり、学校をおこして推奨したりして活躍しており、最終的には天子に上書して極諫した結果、ぶち切られて詰問され、自殺している。

子供として欒賀という人物がいるので、確かに男性機能は回復しているみたい。

去勢されているはずなのに、男性機能が回復したとはどうやって回復したのか不思議でしょうがなかった。

が、今読んでいる小説(鄭和もの)の中で去勢される際に、陰竿だけ斬り、陰嚢は残したとあり、陰嚢が残っていれば隆々として蘇生することもあると書かれてました(あくまでも小説なので鄭和がそうだったわけではないが、そういう事例があったのかもしれない)。

ググった感じだと医学的には8才以下で去勢されて、かつが壮健で栄養が十分であれば、生殖器が回復することも有り得るのだそうだ。

ただ宦官の場合は定期的にチェックされているらしく、もし回復していたらまた去勢されたとかなんとかともある。

ちなみに宦官は日本にはなかったようです(あったかもしれませんが)。

黒岩重吾「鬼道の女王卑弥呼」では、三国志の倭人の項目(いわゆる魏志倭人伝)において卑弥呼のところで「道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。」とあり、その一人の男子を幼いころからの愛人で、その男子が王として孤独に君臨する卑弥呼に対して心身ともに支えるために去勢して卑弥呼に仕えるといううまい設定をしている。

こういう感じで制度としてはともかく、宦官自体は居たかもしれないですね。

宦官の本も何冊か出ているので、そのうち勉強してみようかなと思ってます。

posted by 士季 at 22:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史モノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月23日

高山右近「福者」認定

今日のニュースで戦国時代の大名である高山右近がキリスト教での最高の崇敬対象となる「聖人」に次ぐ「福者」に認定したというのがあった。

高山右近は織田信長や豊臣秀吉に仕えていて、高槻城の城主やら天正13年(1585年)には明石で6万石の大名となる。

が、秀吉が九州征伐後に九州でのキリシタンの実情を見てバテレン追放令が施行された。

その中で一番のキリシタン大名として有名だった高山右近がターゲットにされて、「棄教するか地位を捨てるか選べ」と脅され、皆に棄教しろと助言されるも6万石の地位を捨てることを決意。

その後は小西行長により小豆島とかに匿われたが、最終的には前田利家一族に庇護されて、なんだかんだで1万5千石を受けて暮らしたそうだ。

が、1614年に徳川家康によりまたもやキリシタン国外追放令が施行された結果、マニラに行って翌年亡くなったとのこと。

没後400年で筋目の年ということで日本のカトリック教会が右近を殉教者として福者に認定するようバチカンに働き掛けて、それが認められたみたいです。

6万石の大名の地位より自身の信仰を選んだため賞賛されることもあるようですが、自分のわがままを選んだ結果、家臣とその一族を路頭に迷わせるという将というか上に立つ人間としての責任を放棄しているのは最低だと思う。

そして自分は知り合いの大名に匿われたり、高禄で招かれたりと自分だけはなんだかんだで助かっているんだからとんでもないやつだと個人的には思います。

まあ、塩野七生「ローマ人の物語」を読んで以来、私は大のキリスト教嫌いなのでキツメの評価ではありますが。

ちなみにキリシタン大名は結構いて、有名ドコロでは黒田官兵衛(シメオン)もそうです。

有名ドコロを上げていくと、

明石掃部、有馬晴信、一条兼定、大友宗麟、大村純忠、蒲生氏郷、京極高次、黒田長政、小西行長、内藤如安、松浦隆信

などなど。思っていたよりかは少ない。

変わったところで、父親の筒井順慶は洞ヶ峠で有名で僧だけど息子の筒井定次はキリシタンだったりしますし、清須会議で織田の後継者に認定された三法師こと織田秀信もキリシタンのようです。

posted by 士季 at 13:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史モノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月31日

春秋

ちょっと小難しい話です。

春秋というのは中国の春秋時代の歴史書で、魯という国の年次で記録されたものです(なので編年体の歴史書)。

孔子が編集したものと言われ、儒教の経書(五経)の1つです。

いつも思うのが儒教で儒学という学問なので、宗教じゃないだろうと違和感を覚える。

孔子を必要以上に崇めているという点では宗教ぽいといえば宗教ぽい。

経書というのがまあ聖典で、それの説明というか解釈したものを緯書と言います。

経度、緯度ということからもわかるかもしれませんが、経は「たていと」、緯は「よこいと」のことです。

この春秋というのがもとで、この時代を春秋時代と言います。

ちなみに戦国時代はこの時代の策謀というか縦横家の活躍っぷりが書かれた「戦国策」から来てます。

さて、上記で書いたように春秋が孔子が編纂したというのが一般的に知られていることですが、平勢隆郎「中国古代の予言書」を読んだ結果、どうやら違うようです。

というのもこの春秋時代ではまだ使用されていなかった改元法が使われているとのことです。

最初の史書として「史記」がありますが、これの年月日の整合性が取れないところが数多くあります(議題に上がりそうなのが2900箇所あるとか)。

なぜそんなことが起きるのか?

どうやら2種類の改元法があり、春秋戦国時代の国々によってそれぞれ使い方が異なるとのことで、いろいろごっちゃになったようです。

当たり前ですが西暦とかそんな考え方がないので、各国の史書にはその国のトップが君主についてからの何年という表記になります。

例えば魯の陰公の3年とかといった記載になります(公は爵位で、陰は諡)。

で、2種類というのは即位した年の扱い方で、前の君主が死んだ翌年を元年とする踰年改元法(踰年はゆねんと読み、踰は越すことを言う)、即位した年時代を元年とする立年改元法があります。

史記の矛盾をなくしたり、いろいろ検討していくとどうやら踰年改元法が使われ始めたのが紀元前338年、すなわち春秋時代が紀元前403年までなので、戦国時代に成立した改元法が春秋にも使われているということから、どうやら春秋は戦国時代以降に作られたということになるようです。

そして分析を進めるとどこの国で作られたのか推測できるみたいです。

ちなみに春秋の緯書として3伝あり、春秋公羊伝と春秋穀梁伝と春秋左氏伝があります。

公羊伝と穀梁伝は春秋の字句の解説や解釈で、左氏伝は史実の詳細の補足をしたものになります。

春秋と左氏伝の関係は陳寿の三国志とそれを補足した裴松之の注の関係に似てます。

春秋は簡素すぎますが、左伝による膨大な補足により歴史書としては面白い(オタクにとってはで、一般的には難しいと思います)ので、左氏伝マニアは結構居て、三国時代にも関羽とか晋の統一に貢献した杜預(杜甫の先祖)なんかが居ます。

ちなみに杜預の左氏伝注が今の左氏伝のメインになっていたりします。

で、この3伝も同じようにどこの国で作られたのか推論されてるそうです。

というのもどうやら春秋と3伝は作り的にそれぞれの国の正統性を謳っているものとみなせるからです。

それの推定の仕方は3つの暦(夏暦、殷暦、周暦)があり、それぞれで何月を正月にするかで異なります。

それぞれの国がどの暦を使っているかは日食の年月でわかります。

今の技術ではその年の何月に日食があったかどうかが計算できるからです。

後は君子として誰を扱っているか等から推論しているようです。

結論としては、

春秋→斉

公羊伝→斉

穀梁伝→中山

左氏伝→韓

のようです。

細かいところからここまでわかるとは歴史研究は面白いもんだなあと思いました。

posted by 士季 at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史モノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする